三国志

        「三国「「志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・の(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代ことを叙述した歴史書が、後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操孫権劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。

 

 

三国時代

中国の歴史の中の(かん)(しん)の間、の三国が並立していた時代。の末期、悪徳な役人によって漢王朝は腐敗していました。そんな時代の中、張角(ちょうかく)という人物が仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を倒すために黄巾の乱を起こします。漢王朝はこの乱を鎮めますが、討伐で活躍した豪族たちが力を握り、漢王朝の権威はますます弱くなります。その混乱の中から、英雄たちが現れ、その中でも能力と時の運を兼ね備えた三人の人物が、それぞれを建国しました。この時代を三国時代といいます。この時代にはたくさんの人物が活躍しました。

 



関羽    

 

さらに、曹操が遣わした徐晃の軍が現れる。徐晃は関羽が曹操のもとにいた時から親しかったので、出合った時には世間話などをしていたのだが、徐晃は話し終えると、自軍に振り向き「関羽の首を取った者には、千金を与えるぞ!」と号令を発する。戸惑う関羽に、徐晃は「私事のために公を捨てない」と言い関羽に攻めかかる。

一時的に麦城に逃げ込み劉封・孟達に援軍を要請するが断られ、間道を通って西川へ逃れようとするが、途中で朱然・潘璋の伏兵に会い、潘璋配下の馬忠に捕らえられた。孫権の前に引き出され、降伏を拒んで、養子の関平とともに斬首される。

 

張飛

 

劉備が平原の相となると別部司馬に任命された。

劉表が死ぬと曹操は大軍を率いて荊州に攻め込んだ。劉備はこれを避けて江陵に向かうが、長坂で曹操軍に追いつかれた。ここで劉備は妻子を捨てて逃亡、張飛は二十騎を率いて殿軍を務めた。張飛は川を防御線として橋を落とし、目を怒らせて矛を抱え、「我輩こそが張益徳である。かかってこい。死を賭して戦おうではないか。」と叫びかけた。曹操軍は誰も思い切って近づかず、劉備は無事逃げ落ちることができた。張飛は昇進し、後には南郡を任された劉備が益州に入ると、張飛は諸葛亮と共に益州に向かい、手分けをして郡県を平定した 馬超が蜀に攻め込んだ際には張飛が彼の一騎打ちの相手をするが、日没になっても決着がつかず、松明をたいて夜も戦いを続けたが、ついに決着がつかなかった。

三日以内に全軍に白装束を準備せよと范彊・張達に命令するが無茶な話で、范彊らがもう何日かの猶予を願い出ると張飛は怒って彼らを五十回も鞭打ち、明日中に用意できなければ死刑にするぞと言った。どうせ殺されるならと范彊らは泥酔している張飛の首を落として呉に逃亡した。

 

劉備

三国志演義の主役ともいえる蜀の君主。劉勝の血をひいているというが確証はない。天下のために立ち上がり、漢王室の復興を提唱した。自ら三顧の礼をして迎え入れた天才軍師、諸葛亮孔明の計略によって西蜀の地を得た。関羽や張飛とともに義兄弟の契りを結び、後、蜀皇帝になった。はじめは呉と組んで赤壁の戦いなどで魏を破っていったものの、関羽が呉の呂蒙の策にはまり、殺されたと聞いて激怒し、呉の討伐に向かった。しかし、呉の軍師、陸遜率いる呉に、火計によって大敗し(夷陵の戦い)、失意のままにこの世を去った。

 

曹操

沛国ショウ県の出身で、霊帝に仕える宦官曹騰の孫に当たる。当時、宦官は世間から軽蔑されていた。その孫というのだから、社会の圧力もあり、なかなか表舞台に立つことは難しい。加えて、背が低いというのも彼のコンプレックス。だが、それをバネとし、武術・舞踊・音曲・兵法など、様々な分野で類まれな才能を発揮。ついには改革的な政治に、人々は始皇帝の再来と噂し恐れるようになった。、才能ある者は身分にかまわず登用し、人を見抜くことにかけては誰にも負けなかった。演義では悪役として描かれているが、劉備は血筋を武器とし、孫権には受け継いだ領地と兵があった。まったく無の状態からスタートを切った曹操は中華の統一とまではいかなかったものの、たった五千の挙兵から、群雄割拠の時代を生き抜き、天下の三分の一を手にした。彼の実際的な政治能力の高さがうかがえる。また、幼い頃からウソが上手く、彼の墓は六十近くの偽物が作られ、一向に謎に包まれているという。

孫権 いわずと知れた呉の初代皇帝。孫堅の次男で、孫策の弟にあたる。孫堅と孫策が築いた呉の基盤を引継ぎ、蜀や魏とともに三国鼎立時代を築いた人。若くして急死した兄の後を継いだ孫権は、蜀と組み、東時最大の国であった魏を赤壁の戦いで破った。しかし呉の策略は、魏と蜀が戦いつかれたときに両方を同時に討つという作戦だったため、晩年は積極的には出兵しなかった。周瑜死後には陸遜を総大将にした戦いもあったが、最後まで陸遜を信用できなかった孫権は、後継ぎ問題から10人以上を死に追いやることにもなったのである。そして、71歳でこの世を去った。