新田義貞の生涯

 

鎌倉末・南北朝時代の南朝方の武将。朝氏の子。上野国新田荘(群馬県太田市、尾島町、新田町の一部)を拠点とする豪族新田氏の惣領であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名さえ持たないほど鎌倉幕府からは冷遇された一御家人にすぎなかった。

 

1331 元弘の変では、大番役として上洛していたが、河内国で楠木正成の挙兵が起こり、鎌倉幕府に従って正成討伐に向かい、千早城の戦いに参加している。しかし義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『太平記』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している。

 

13335月、護良親王の令旨を得て北条氏に背き挙兵。上野・越後に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合。

 

小手指原の合戦

511日辰の刻(午前8時頃)、義貞軍は入間川を越えて小手指原(所沢市)で北上してきた幕府軍と遭遇した。この合戦で義貞方は300余騎、幕府方は500余騎の犠牲者を出したが勝負は未決のまま、義貞方は三里後退して入間川(狭山市)に陣をとり、幕府方は三里しりぞいて久米川(東村山市)に陣を敷いた。

 

久米川の合戦

512日、夜が明けるのを待ちかねたように、久米川の合戦は、切って落とされた。この合戦で義貞軍は勝利し、幕府軍は、陣容を建て直すために、分倍河原まで引き退いた。

51314日、義貞軍も1112日の合戦で人馬とも疲れていたので、追跡をやめて、久米川に陣を張り休息した。

514日、小手指原・久米川の敗戦を聞いた幕府は、北条高時の弟の北条泰家10万の大軍をそえて多摩川の防備線を死守するために急ぎ鎌倉を出発させた。

 

分倍河原の合戦

515日、十分に休息をとった義貞軍は、敵に10万の新手が加わったことも知らず、分倍に陣する幕府軍を壊滅させようと攻撃をしかけた。しかし幕府軍は、新手の大軍であり、しかも久米川の敗戦の恥を注がんと意気に燃えていたために、ついに義貞軍は入間川の南にある堀兼(狭山市堀兼)まで、後退せざるをえなかった。義貞が、その敗走に際して、武蔵国分寺を焼いた。15日の晩、義貞の陣に相模の三浦義勝松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷などの相模の国人衆(土豪)を引きつれて参陣した。この相模の国人衆の義貞軍への参加は、相模国が幕府の本拠地であるだけに幕府滅亡の決定的要因といえる。

516日の未明、相模勢と江戸・豊島・葛西・河越らの坂東八平氏武蔵七党を主体とした義貞軍は、前日の勝利で油断していた幕府軍を襲い大勝利をおさめた。幕府軍の大将北条泰家は関戸付近(多摩市)で敗死寸前のところ家臣の横溝八郎の奮戦によって、16日の夜鎌倉に逃げ帰った。勝ち乗じた義貞軍は、敗兵を追って鎌倉道を南下して鎌倉に向かった。その勢力は60万7千騎となった

 

518日朝、義貞軍は鎌倉郊外(藤沢)にせまった。義貞軍は三手に分けて攻め込んでいった。右翼軍には大舘宗氏を大将として片瀬・腰越から極楽寺坂へ向かわせ、左翼軍は堀口貞光を大将として巨福呂(こぶくろ)に向かわせ、義貞自らは中央軍の将として化粧(けわい)に向かった。18日から攻防戦がはじまり、激戦は五日間にわたった。極楽寺坂にむかった右翼軍の大将の大舘宗氏が戦死し、片瀬・腰越あたりまで後退した。そこで義貞は主力を率いてこの方面に転じ、猛烈に攻め寄せたが、この切り通しは険しく容易に破ることができない。

5222時頃、稲村ヶ崎の干潮を利用して海岸線を突破して極楽寺坂の背後にまわり、夜明けとともに鎌倉に突入した。義貞が、

仰ぎ願くば内海外海の龍神八部、臣が忠義をかんがみて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かし給へ

と龍神・八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦桜羅(かるら)・緊那羅(かんなら)・摩喉羅迦(まごらか)に祈って太刀を海中に投じたのはこの時である。大手の極楽寺坂が破れたと聞いて、他の攻め口の義貞軍も、どっと鎌倉に討ち入った。

北条高時は東勝寺で自害し、一族283人、郎党870余人はこれに殉じた

 

鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させた。その功により、建武政権下では重用され、越後などの国司武者所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立するようになる。35年(建武2)、関東に下った尊氏を追撃するが箱根竹の下の合戦に大敗。しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とす。36年(延元1・建武3)、再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐天皇方は楠正成らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金ヶ崎城(福井県敦賀市)を拠点に再起を図るが、37年これを失陥、嫡男義顕も自刃、ついで38年閏72日、越前藤島(福井市)で守護斯波高経・平泉寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇、戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろんだが、山名・岩松氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに弟脇屋義助をはじめ、大館・堀口氏らの本宗系の庶子家しか動員しえなかったのであり、この点に、すでに義貞の非力さが存在した。にもかかわらず義貞は後醍醐天皇によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになったのである。