謎だらけの古代

 

 皆様初めまして。

僕は邪馬台国がどこにあるか、九州、それとも畿内か、はたまた別のところか。そんな謎を調べていきたいと思います。とある品詞が抜けているところが多いでしょうがご了承ください。

1、邪馬台国って…どこ!?

そもそも邪馬台国は、いつ成立した国なのでしょうか。

邪馬台国のあった当時(3世紀と考えられる)、国とは中国漢文でいう塀、柵、堀で囲まれた砦の町のことを指します。魏志倭人伝などの中国の文書では、『和国乱れて相攻伐すること歴年なり。(略)乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。』とかかれています。要は乱れ毎年争いたえぬ倭国を女王により治めるということです。ただ、全日本を統治したわけではなく、東日本の一部、特に邪馬台国の南には男王の支配する狗奴国があり、邪馬台国と戦争状態にあったとのことです。『鬼道を事とし能く衆を惑わす。(略)王となりてより以来、見る有るもの少なし。』これは卑弥呼という人となりとして有名なものですね。これは多くの方が小中学校の歴史の授業で教わったことと思います。

魏志倭人伝とは、俗称であり、魏志の内にある倭についての数ページの記述の事を指す。実際女王国=邪馬台国ともいえないのも事実だがその結論はまた伏せることに。

なお、気になるところがあります。『女王国の東、海を渡ること千里余に復た国有り。(略)またその東南にあり、航行一年にして至る(略)絶した海中の州島の上にあり、或いは絶し或いは連なり、周旋五千余里なるべし。』魏志倭人伝には東南2500km先に邪馬台国があると示されています。これが邪馬台国の地理であり、どこにあるのかの答えなのです。しかし、引っかかるところはありませんか。そう、東南という言葉に、引っかかるのです。実際に南東のことを示していればそれでいいのですが、それが東南東或いは南南東を示しているかもしれないとして、九州説と畿内説で考古学がおきてからずっと論争が今日まで続いております(そんな単純なる理由だけではないが…)

畿内説――――――

起点の帯方郡(朝鮮半島北部)から狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国、投馬国を経由するのですが、不弥国の位置から畿内にあると考えられることができます。

畿内説には大阪府、琵琶湖畔などの説も上げられますが、有力なのは奈良県桜井市の纏向遺跡と考えられます。理由に挙げられるのは下記の通りです(箇条書き)。

・出土された記念鏡の年代が邪馬台国の年代と一致。

・前方後円古墳の分布が近畿地方に集中しており、時代が下るにつれ全国に広がっていった。

13枚ある記念明鏡の内、12枚が235244年の間に収められており、尚且畿内に集中している。

以上の理由が挙げられますが、九州説も否定できないことは確かです。

九州説――――――

九州説では、糸島市(福岡県東端)を中心とする北九州広域、太宰府天満宮(福岡県内陸)、宇佐神宮(大分県)、西都原古墳(宮崎県)などが上げられていますが、特に定説というものはないようです。理由としてみれば以下の事項が挙げられます。

        帯方郡から女王国まで12000里なのに対し、伊都国までは10500里。単純計算しても、邪馬台国〜伊都国間はたったの1500里であり九州からはでない可能性が高いこと。

        狗奴国を九州の勢力、熊襲と比定するとその官の名前は「菊池彦」の音訳と考えられる。

        魏志倭人伝の中に女王の埋葬方法が上げられるが九州ではその埋葬方法が使われていた。

        後の邪馬台国について、畿内に征服されるか、畿内を征服するかの両説があげられる。

以上の説があげられます。

さて、畿内説、九州説、とあげてまいりましたが、そもそも原文読んだときに邪馬台国=女王国ではないでしょう、という説が、考古学者吉田武彦氏によって唱えられています。原文は、女王国の存在を伏せようとしているのか、そもそもあいまいであるのか、どのような意味を示しているかは、ご想像にお任せします…。

 

 

参考文献

フリー百科事典 Wikipedia

吉田武彦 著 「邪馬台国」はなかった解読された倭人伝の謎

石原道博 編/訳新訂魏志倭人伝後漢書東夷伝宋書倭国伝隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)