享保の改革
江戸中期、犬公方こと徳川綱吉による天下の大悪政によって
幕府への信用は大きく下がり、新井白石の尽力は
6・7代将軍の早世により叶わず、江戸幕府の治安は乱れ、
将軍の権威も次第に下がりつつある中、
1684年、後に米将軍と呼ばれる徳川吉宗は誕生するのである。
しかし母親が低層の身分だったらしく、
幼年期は家老の元において育った。
12歳で官位(従五位下)を与えられ、
その後も少しずつ昇進の道を進んでいる。
1697(元禄元年)、14歳で幕府より
越前に3万石を与えられ、その後1716年、
紀州藩主における財政立て直しの功を買われ、
遂に7代将軍徳川家継の後を継ぎ8代将軍になる。
ちなみに、吉宗は8歳で死んだ家継に30代で養子となっている。
将軍となった吉宗は、早々に改革を断行し始めた。
側用人の廃止、反対勢力の抑止、足高の制、目安箱設置など
権力の確保・保身、経済状態の把握、
幕府の経費削減を専らとするものであった。
名改革といわれつつも、実際にはその場凌ぎ程度なのである。
簡単に言ってみれば、四折り傘みたいなもの。
この後、日本は改革に次ぐ改革を断行し続けるのである。
しかし、小中の日本史ではこの改革は大成功を収めたと
書いてあるので、実際のところ、
すべてを鵜呑みにする必要はありません。
当然のことですが、これがすべて事実だ、
といえる保証はどこにもありませんので、
信じるか信じないかは、あなた次第です。