広島市に落とされた原爆
1,初めに
高輪学園中学3年は皆、修学旅行で広島等西日本探訪を行ってきました。その際広島の原爆の話がとても強く印象に残りました。その時の言葉がとても印象に残ったので書こうと思ったのがきっかけです。
2,広島への原爆投下当時の状況
ご存じの通り、1945年8月6日(月曜日)に広島市に原子爆弾『リトルボーイ』が投下されました。時刻は8時15分17秒でした。当時週末の休みもなく午前8時といえば現代でも勤務時間です。ちなみにその日の午前0時から2時にかけて空襲警報が出されており、寝不足の市民も多かったそうです。また、この時代は中学上級生も軍需工場で働いていました (総計1万数千人) 。
3,『なぜ』、広島に原爆が投下されたのか
広島はその当時、大量の軍需工場や造船所などがあった場所でした。当然軍艦などの制作が行われていたのです。戦争をした際、長期戦ならばなるだけ相手の資材や食料、兵器などを無くしてしまえば相手は対抗ができなくなる、というやり方です。無論、この爆弾に戦艦や機雷、潜水艦は耐えられずに破壊されていきました。
4,原爆投下当時の話
西日本探訪という機会の中で平和記念学習のために原爆を実際に体験した方の話を聞き、原爆資料館を見てきました。原爆資料館には広島の原爆投下により犠牲になられた方々の顔写真や絵本のようにした物語、伝記等が置いてありました。自分にとっては想像もしていなかったような悲惨な物語や伝記があり、読んだ時の悲しみと衝撃は今でも忘れられません。お話を聞いたときは正直に言えば呆然としました。当時の悲惨さや苦しみがなるだけ抑えた言葉からも読み取れるほどでした。あの時もしも自分が生きていたら―――――
それを思うと体に鳥肌が立ちます。
5,具体的な被害、後遺症など
広島原爆は、人々に多大なる影響を及ぼしました。外に居た人は爆風で吹き飛ばされ皮膚が熱融解してしまいました。目玉が飛び出ている人や、皮が半分以上も剥がれている人々などがいたようです。その光景はまさに『生き地獄』といったところだったのでしょう。その状態の広島に最初に到着したアメリカ兵の息子の方がこう語っています。
「父は何も語らずに涙を流していた。語るにも語れない、あまりにもおぞましい光景だったのだろう。」と。
後遺症などとしては、やはり白血病等ガンの類のものがやはり多いです。白血病の他、乳がんや胃がん、骨髄ガンまで様々なガンの発生率が被曝と関わっているという疑惑があります。「被爆年齢が低いほどガンになりやすい」という報告も上がってきています。
そのほかにも原爆白内障やケロイドなどがあります。
(原爆白内障:3か月から10年ほど潜伏した後に発症する放射線の関係する白内障。爆心地に近ければ近いほど発症率が高いとされている。)
(ケロイド:怪我や火傷をした後の皮膚が赤くなり盛り上がる病気。怪我に関係なく体質の関係上発症する人もいる。ステロイドという物質での治療が効果的)
6,広島の原子爆弾投下を基にした作品
世界唯一の原爆投下国である日本にはこの原爆、特に広島の物を題材として作られたアニメーションや絵本なども多数存在しています。漫画でいえば『はだしのゲン』(中沢啓治氏著)などが有名でしょうか。アニメーションでは広島平和公園資料館にも展示されていた『ピカドン』(木下連三氏、小夜子氏夫婦作)という短編アニメーションがあります。このアニメーションは手書きアニメーションですが、原爆投下直前と直後の比較により爆発の悲惨さを物語っている作品で、とても感動的かつ感傷的でした。このような資料も原爆のことを知る上で重要な資料になったと思います。
7,今だからこそ、思うこと
広島に行き、原爆の悲惨さや被害などを見てきた今だからこそ、本当に原子爆弾というものは『非人道的武器』だと思います。戦争の影響だとはいえ、あそこまでの市民や一般人を巻き込み、無残に虐殺してしまうというのはやりすぎではないのか。
幸い、太平洋戦争以来核兵器が使われた戦争というものはありません。当の核行使国であるアメリカもバラク・オバマ大統領の指示のもとで核廃絶に向けて活動し、広島記念公園で開かれた平和祈念式典にもアメリカ代表が出席しました。
一方で北朝鮮や中東地域の国々は核爆弾を保持している国もあり、状況によっては使用される可能性すらあります。
この世界から核爆弾というものが消える――――――その日はいつになるのかわかりませんが、僕は一個人として、一人の原爆被害を伝える者として、本心から
核爆弾、またはそれに準ずるものの廃絶を願っています。
もう二度とこのような悲劇を繰り返さないように。