古代1
1次の に入る語句を入れなさい。
現在までに日本列島で発見された更新世の化石人骨は、 県の 人や 県の
人などいずれも 段階のものである。これらの人骨の特徴は、横幅の い顔を持ち、身長も い。1924年、 県の 遺跡により 石器が発掘された。以後各地で石器の発見が相次ぎ 時代の文化の存在が明らかになった。
今からおよそ1万年あまり前になると地球の気候も温暖になり現在に近い自然環境となりニホンシカやイノシシなどが大きくなった。こうした自然環境の変化に対応して、人々の生活も大きく変わり、 文化が成立する。この文化を特徴づけるのは、増加する中・小動物を射とめる 、主として植物性食物を煮るの 、さらに 石器の出現である。この土器は表面を平らにするため縄をころがしてつけた文様を持つものが多いので 土器と呼ばれ、 温で焼かれた 手で 色のものが多い。また、海面が上昇する改進の結果、日本列島は入り江の多い島国になり漁労の発達を促した。今も各地に数多く残る から分かる。人々は地面を掘りくぼめ、その上に屋根をかけた を営んだ。 人たちは、あらゆる自然物や自然現象に礼意が存在すると考えた。こうした風習を示す遺物に、 性をかたどった などがある。
このころ 大陸では 下流域で が始まり農耕社会が成立した。さらに紀元前6世紀ころから の使用が始まり、やがて秦、漢(前漢)という強力な統一国家が形成された。こうした動きは日本へも強い影響を及ぼし日本列島にも波及したのである。紀元前5世紀初め頃には西日本に を基礎とする 文化が成立し、やがて東日本にも広まった。こうして北海道と南西諸島をのぞく日本列島の大部分の地域は、食糧最終の段階から食糧生産の段階へと入った。この紀元前4世紀ころから紀元前3世紀の時期を 時代と呼んでいる。 文化は水田稲作を基礎とし、鐡、銅と錫の合金である青銅などを用いた 、稲の穂つみ用具である なども伴う新しい文化である。また土器も煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食物を盛る鉢や高杯など 焼きの 土器に変化した。人々の生活も大きく変化した。 がすでに始まっており、耕作用の農具は や が用いられ、脱穀には
と が用いられ収穫物は などに納められた。
時代には石製や金属製の が出現する。日本も争いの時代に入り、強力な集落は周辺のいくつかの集落を統合し、各地に「 」と呼ばれる政治的まとまりが分立していった。1世紀にまとめられ前漢の歴史を述べた によると和人の社会は百余国に分かれ、楽浪郡に定期的に使者を送っていたという。また には紀元57年に倭の 国の音の使者が後漢の都 に赴いて から印綬を受けた。 国は今の福岡市付近に会った小国で、同市の からはこの とみられるものが発見されている。さらに には倭国では2世紀の終わりころ大きな騒乱が起こり、なかなかおさまらなかった。そこで諸国は共同して の女王 を立てたところ、ようやく争乱は収まった。 は魏の皇帝に使いを送り「 」の称号と多数の などを贈られた。 では身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整い、また市も開かれていたという。この の所在地について主に 説と 説がある。
〜解答〜
現在までに日本列島で発見された更新世の化石人骨は、静岡(沖縄)県の浜北(港川 もしくは 山下町洞)人や沖縄県の港川 もしくは 山下町洞(港川)人などいずれも新人段階のものである。これらの人骨の特徴は、横幅の広い顔を持ち、身長も低い。1924年、群馬県の岩宿遺跡により打製石器が発掘された。以後各地で石器の発見が相次ぎ旧石器時代の文化の存在が明らかになった。
今からおよそ1万年あまり前になると地球の気候も温暖になり現在に近い自然環境となりニホンシカやイノシシなどが大きくなった。こうした自然環境の変化に対応して、人々の生活も大きく変わり、縄文文化が成立する。この文化を特徴づけるのは、増加する中・小動物を射とめる弓矢、主として植物性食物を煮るための土器、さらに磨製石器の出現である。この土器は表面を平らにするため縄をころがしてつけた文様を持つものが多いので縄文土器と呼ばれ、低温で焼かれた厚手で黒褐色のものが多い。また、海面が上昇する改進の結果、日本列島は入り江の多い島国になり漁労の発達を促した。今も各地に数多く残る貝塚から分かる。人々は地面を掘りくぼめ、その上に屋根をかけた竪穴住居を営んだ。縄文人たちは、あらゆる自然物や自然現象に礼意が存在すると考えた。こうした風習を示す遺物に、女(男)性をかたどった土偶(石棒)などがある。
このころ中国大陸では長江(揚子江)下流域で稲作が始まり農耕社会が成立した。さらに紀元前6世紀ころから鉄器の使用が始まり、やがて秦、漢(前漢)という強力な統一国家が形成された。こうした動きは日本へも強い影響を及ぼし日本列島にも波及したのである。紀元前5世紀初め頃には西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立し、やがて東日本にも広まった。こうして北海道と南西諸島をのぞく日本列島の大部分の地域は、食糧最終の段階から食糧生産の段階へと入った。この紀元前4世紀ころから紀元前3世紀の時期を弥生時代と呼んでいる。弥生文化は水田稲作を基礎とし、鐡、銅と錫の合金である青銅などを用いた金属器、稲の穂つみ用具である石包丁なども伴う新しい文化である。また土器も煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食物を盛る鉢や高杯など赤焼きの弥生土器に変化した。人々の生活も大きく変化した。田植えがすでに始まっており、耕作用の農具は鋤や鍬が用いられ、脱穀には木臼と堅杵が用いられ収穫物は高床式倉庫などに納められた。
弥生時代には石製や金属製の武器が出現する。日本も争いの時代に入り、強力な集落は周辺のいくつかの集落を統合し、各地に「クニ」と呼ばれる政治的まとまりが分立していった。1世紀にまとめられ前漢の歴史を述べた『漢書』地理志によると和人の社会は百余国に分かれ、楽浪郡に定期的に使者を送っていたという。また『後漢書』東夷伝には紀元57年に倭の奴国の音の使者が後漢の都洛陽に赴いて光武帝から印綬を受けた。奴国は今の福岡市付近に会った小国で、同市の志賀島からはこの金印とみられるものが発見されている。さらに『魏志』倭人伝には倭国では2世紀の終わりころ大きな騒乱が起こり、なかなかおさまらなかった。そこで諸国は共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てたところ、ようやく争乱は収まった。卑弥呼は魏の皇帝に使いを送り「審議倭王」の称号と多数の銅鏡などを贈られた。邪馬台国では身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整い、また市も開かれていたという。この邪馬台国の所在地について主に近畿(九州)説と九州(近畿)説がある。
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